昭和40年8月20日 朝の御理解
(始め不明)その、おわびをさせて頂かなければならないことの多いこと多いこと。お願いをさせてもらい、おすがりをそせて頂かなければならんことのかぎりないこと。
そういう限りないお願いやらおわびやら、お礼やらさせて頂いて、そしてそのあとに、いよいよこれではならんなというものが生れてくる。いうなら、信心をだんだん進めていくということは、もう限りなくお詫びをせて頂かなければならないためにも、自分自身をいよいよ深く広く自分自身を分かることだということ。ね、これを深く広くひろめていかなかったら、深く掘り下げていかなかったら、大体どこをお詫びせんならんじゃろうかというようなことでしまえる。別に悪いことはしとらんだけにしまえるに違いはない。
お礼ををもうしあげねばならんことも同じこと。もうほんとうにただ健康のおかげを頂いておりますということだけでも、ただもう健康のおかげを頂いておりますだけではあいすまん。目が見えておる、耳が聞こえておる、ね、手足がこうやって動いておると、まあだ、もう健康ということだけでも、お礼のその申し上げなんことの多いのに驚くのである。まして健康だけのことではない、もう一事が万事におかげを頂いておる。そういうようなことが、心からありがとうございます、ありがとうございますとお礼を申し上げていくということ。しかも、このようにたくさんお詫びをしなければならないほどの私。お粗末御無礼というたら、ただお粗末御無礼お許しくださいというだけではなくて、そのお粗末御無礼を自分で気が付いておるだけでも、自分が気付かせて頂くだけでもこんなにたくさんあるのだから、気が付かないであおるところのお粗末御無礼がどれだけあるやらわからん。お礼においても同じこと。気付かせていただくだけでも、これだけのおかげを受けておるのであるから、きがつかないでおるなかに、もっともっとお礼を申し上げなければならないことが、おろそかになっておることであろうとこう思う。みなさん、そういう体験はお持ちじゃないでしょうか。御神前にぬかずかれて、もうお礼を申し上げてもお礼を申し上げても、あれもおかげ、これもおかげと思うたら、限りがない。お礼を申し上げることが尽きんのである。そんな体験をみなさんお持ちでしょう。ね、私のようなものがと分かりだしたら、ね、まことに神様にあいすまんことである、金光様に対してあいすまんことであるというです、おわびさせてい頂いておったら、ね、御神前にぬかずかせて頂いてもう限りがない。
そういうお詫びやらお礼やら申し上げねばならんほどのおかげやらお許しを頂いておるにもかかわらず、ところがまたまた願わなければなられんことの多いことにもそれこそ驚く。雲のようにわいてくる。おすがりをしなければせねばならんことの多いのに驚く。というて、もうおすがるにもこれくらいでいいというとこにはいかん、やはりもう心行くまでおすがりせねばおられんのである。私に力がない、我無力であるということがわかればわかるほど、障子一重がままならぬ人の身であるということが分かればわかるほどすがらなければおられんのである。みなさん今日はここんところをね。。。(途中切れ)